患者を診る魅力
私は1988年に東北大学を卒業し、東北大学産婦人科で産婦人科全般の学びを得て2010年より秋田大学産婦人科主任教授として標準的な生殖医療の提供を含めた産婦人科医療全般の地域維持と医師の育成(卒業生は殆ど都会に戻ってしまいますが)を担っています。
配偶子・胚との対話は1991年に東北大学産婦人科生殖内分泌グループに配属されたときからになります。 当会への入会もそのころで、学術集会の発表内容や「哺乳動物卵子学会誌」の掲載論文はとても難解でさっぱり理解できなかった記憶があります。 東北大では京都大農学部入谷教授のもとで2年間研鑽をつまれた萬代泰男先生から配偶子操作の基礎を厳しく仕込んでいただきました。 萬代先生は50歳を前に血液疾患でお亡くなりになりました、謹んでご冥福をお祈りいたします。
東北大産婦人科のICSIは私のオレゴン留学の帰国を契機にはじまりほどなく妊娠例を得ることができました。 巨大な東北大病院では午前の採卵術は叶わず、午後に行われていたので日が変わるまで未成熟卵子の状況を見守ることは通常の業務でした。 もちろん胚培養士などの人材はなく、全て自らの手で行っていました。 ICSIを施行していて ①顕微注入に苦労した卵子ほど実は妊娠が期待できる ②細胞質の色彩が(極端でなく)ヘテロな卵子ほど妊娠しやすい。などなど体感してゆきました。 前者は「女性の個体加齢による卵子細胞膜の変化」そのもので秋田にきてからリピデミクス解析など企てましたが叶っていません。 後者は細胞内小器官・細胞内構造の配置とかかわっておりこれは今も継続している細胞骨格の研究と結びついていると考えています。
ICSI一例目のかたは私の同郷の静岡出身で分娩にも立ち会いたかったのですが出張中に無事生まれていました。 退院時診察で分娩時使用したガーゼの遺残があった(医療インシデントです、幸い感染等ありませんでしたが)とのことで私も訪室しお詫びしたことを思い出します。 今はあまり臨床で胚や配偶子を覗くことはありませんが、あの頃のほうが形態良好胚が沢山あったような気がしています。 受療者の年齢が若かったのか、やはりきちんとした細胞生物学を身に着けた人材(僭越ながら私のことです)が全てを行っていたからなのかはわかりません。 40代前半は自分自身も熱く(暑苦しく)患者さんが妊娠してくれた時などは、ハグしあったりしていました(今となっては不適切な挙動でした)。
私はオレゴン留学中よりpost-ICSI events in fertilizationに興味をもちタイムラプスのないそのころ、研究所に泊まり込みウサギの精子侵入から2細胞期までの過程を捕まえようとしていました。 その画像は2000年のBiol Reprod.の表紙を半年飾りましたが、最近のタイムラプスライブイメージングでの検証を参照すると忸怩たるものがあります。 2005年に当学会学術集会ではじめて拝見した見尾保幸先生によるヒト受精の極めて明瞭なムービーは衝撃的でした。 翌週には米子に飛び(自由な東北大助教授時代)見尾先生に撮像装置をみせていただきました。 その後、このイベントの可視化が研究上の夢になり、アカデミアにどっぷり浸かってしまう契機の一つにもなったと思っています。 現在の私自身は世界一の少子高齢化地域である当地の産婦人科医療の維持のため心が休まる時間もなく、大きな大学同士の合従連衡的研究の要素もありませんが、少しずつその夢が叶いはじめてきているようです(RMB 2023, Nat Commun 2024)。
先年、ある学会の展示会場で企業のスタッフである女性からご挨拶いただきました。 東北大でのICSIによる初妊娠のかたで、子育てが一段落したところで成育医療関係の仕事がしたくなり、お元気で頑張っておられるとのことでした。